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森寺城跡(史跡)

更新日:2016年4月1日このページを印刷する

指定:昭和48年1月30日
所在地:富山県氷見市森寺字城山

石垣を持つ市内最大規模の中世城郭

南北約1.2km、東西約0.5kmに及ぶ市内最大規模の山城で、中世の史料には「湯山城」の名前で登場します。「御殿山」と通称される中心部分が史跡に指定されています。能登守護畠山氏によって、越中進出の拠点として16世紀初め頃に築城されたと考えられ、その後上杉氏の支城を経て、織田方の支城となりました。

城内には、土塁・堀切・竪堀などの防御遺構が良好に残っており、南側にはサイダ屋敷・野崎屋敷・金戸山など独立性の強い郭が配されています。また、本丸・二の丸といった中心地区には、出入り口や土塁などの重要な部分に石垣が築かれています。中世城郭の本格的な石垣は、富山県内では本城のみに見られるものです。これら石垣は織田方武将の手によって導入されたものと考えられ、織豊系城郭の地方伝播をしめす一例と捉えられます。

氷見市教育委員会では平成8年度から城跡の測量調査を実施し、それにあわせて試掘調査を断続的に実施してきました。平成9年から13年の試掘調査では、裏込石を用いた石垣の構造や、埋め戻されていた空堀の存在が確認され、土師器や白磁・染付・鉄釘などが出土しています。また平成16年の試掘調査では、石敷き・石垣・側溝を組み合わせた幅約3mの通路が確認されています。

森寺城は、天正13年(1585)、佐々成政が羽柴秀吉に降伏し、氷見地域が能登と同じく前田氏の所領となった際に、廃城になったと推定されます。本丸周辺の土塁や空堀、石敷きの通路は、このとき「城破り」によって意図的に壊されたと考えられます。

森寺(湯山)城関連年表

永正16年(1519) 能登守護畠山義総、守山城(高岡市)の神保慶宗討伐のため、越中に出陣する。この頃までに湯山城築城か。 畠山氏支城
弘治3年(1557) 能登守護畠山義綱に反した家臣温井一派が湯山城で勝利する。(湯山城初見)
永禄11年(1568) 家臣によって七尾城を追われた畠山義続・義綱父子が、湯山城を一時占拠する。
元亀2年(1571) 一向一揆討伐のために越中に出陣した上杉謙信が、小矢部川増水のため、守山城・湯山城攻略を断念する。
元亀3年(1572) 湯山城主と伝えられる長沢光国が上日寺に石仏を寄進する。
天正4年(1576) この頃、七尾城攻略を目指す上杉謙信が、湯山城を落とし、支城にしたとみられる。 上杉氏支城
天正5年(1577) 謙信が七尾城を落とし、能登を制圧する。
天正6年(1578) 上杉謙信死去
天正7年(1579) 織田方と意を通じた守山城主神保氏張と、その客将長連龍が、上杉配下河田主膳の守る湯山城を攻め落とす。湯山城の石垣は、これ以降に築かれたと思われる。 織田・佐々氏
支城
天正8年(1580) 織田信長が阿尾の屋代十郎左衛門と菊池右衛門入道に、所領安堵の朱印状を下す。
天正9年(1581) 信長配下の佐々成政が越中に入る。
天正10年(1582) 本能寺の変で、織田信長死去
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家死去
天正12年(1584) 佐々成政と前田利家が対立する。佐々配下の神保氏張、荒山経由で能登へ出陣する。この頃斎藤信利湯山城在城か。
天正13年(1585) 佐々方から寝返った阿尾城主菊池右衛門入道と前田利家との誓いの紙に、湯山城のことが記される。羽柴(豊臣)秀吉の越中出陣により、佐々成政降伏し、まもなく湯山城廃城か

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